カテゴリー「ニュース」の記事

誰が新聞をチェックするのか-メタミドホスの毒性記事-

 違う数値を見た気がする、と思っていたがたまたま同僚が手にしていた新聞の記事二つだったので後になって比較しようがなかった。
 が、やはり気のせいではなかったらしい。

『ギョーザ報道における毒性情報』

インタビュー形式を含めて、こんな例があった。
 その1:「動物実験の結果から考えて、人でも体重1キロ当たり257ミリグラムのメタミドホスを摂取すると急性中毒の症状がでる」。
 その2:「国際的な安全性評価では、メタミドホスを一度に摂取した場合に健康に大きな影響を与えないとされる上限は、体重1キロ当たり0.01ミリグラム。体重60キロの人間だと0.6ミリグラムとなる」。

 この2つの数値は、実に、2万5700倍も違っている。もっとも、症状に関する記述も違っていて、はじめの文章では、「急性中毒の症状がでる」となっているが、次のものでは、「健康に大きな影響を与えないとされる上限」となっている。しかし、常識的にみてそのために2万5700倍もの差があるとは考えにくい。257ミリグラムという数値自体、この専門分野では不思議な数値に思える。一般に、3桁も精度があるとは思えないからである。

http://allatanys.jp/B001/UGC020001820080211COK00015.html

 以前、『あるある大辞典』で科学的に誤りがあっても、「あまりにばかばかしい話だったので、科学者が誰も指摘しなかった」という記事を見かけた。これも似たようなパターンだろう。
 あるあるの場合はその放送後、一部商品の売れ行きが大きく変わるため、社会問題になったけれど、新聞記事の科学的記載のミスは即効性がないため放置され続けているんじゃないだろうか。
 そうして誤った知識が広まっても、誰も指摘せず、そのままになってるんじゃないだろうか。

 新聞が常に正しい報道をしろ、誤りを指摘されたら即座に訂正しろ、という話じゃないよ。

 読んだら鵜呑みにしないで調べろっていうことね。あたしが思ってるのは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

盲導犬の意義・普及させる協会の意義…かな?

 盲導犬協会が目の不自由な人に貸与していた盲導犬をはねたトラック運転手とその建築・運送会社を相手取って損害賠償を求める訴えを起こしたとか。

 過去に事故死した盲導犬ってどうだったんだろう。

 「命に値段はつけられない」という感傷的な発言はおいといて(それでは問題があやふやになり、責任というのをどこまでどう取るべきかの議論に入らない)、盲導犬育成の金額に「正当性と必要性が認められるか」なんじゃないだろうか。

 しかし、この会社、というかたぶん金額提示は保険会社とか弁護士とかの算出なんだろうが、盲導犬というものの価値をどう捕らえて提示したんだか。
 一番安い額からはじめて折り合いをつけるつもりで出したのが
『運転手と会社らは「子犬価格は10万円」などとして、約20万円の支払いを提示』
なんだろうが…。

 たとえば、ペットショーに出すためにお金を掛けて毎週トレーナーにつけていた血統書つきの犬と、大事に飼っていたけれど雑種ですっていう犬で、事故死した場合の補償金金額が異なるのは命の問題として納得がいかないってのはある。
 だが、この犬の場合は仕事をしていて死んだわけで。

 いわば殉職。
 その職業の正当性が、金額に反映されるかどうかが、問題のように思うんだけど。

 違うかな。

 あと、もう一個思ったのが、この金額を否定することっていうのは、盲導犬協会の盲導犬育成の活動内容の否定にならないかな。
 盲導犬が社会全体としていらない、ということか、盲導犬一頭を育成するのにこんなにかかるのは掛けすぎ・協会の運営が下手だからだっていうことに。

 盲導犬の意義もだけれど、盲導犬協会の活動の意義も問われるんじゃね?

 まぁ、どんなにいい子犬を連れてきても、その横に380万円置いただけでは盲導犬にころっとなるわけじゃない。そこには協会が運営したアレコレがあって初めて犬が盲導犬になって、最終的に目の不自由な人たちのところに行くわけだよね。

 その辺の評価も名古屋地裁にかかってるんだなぁ。

続きを読む "盲導犬の意義・普及させる協会の意義…かな?"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

相変わらず笑止

相変わらず笑止

 ところでアニマルライツな方々は、CNNの報道が正しいものだともろ手を挙げて賛同するのだろうか。

 環境テロが日本政府を相手にし始めたってことか。

 当面オーストラリアに旅行に行くと日本人というだけでいい顔をされない可能性がある。が、ホェールウォッチングでボロボロ金を落とす大口顧客に日本人がいることを、彼らは忘れている。
 ついでにいうと自国の歴史も。

続きを読む "相変わらず笑止"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

KYとか(日経新聞『春秋』欄、2007/12/30掲載から考えたこと)

※この項目は書き直す可能性が巨大です。
 私の思考の経過途中なので、つけたし・訂正等する可能性があります。

春秋(12/30)
 「KY」対「そんなの関係ねえ」。今年、矛盾するような2つの言葉が同時に流行した。前者は空気(K)を読めない(Y)人への非難。後者は場の空気に構わずパンツ1枚で踊りながらこの語を連呼する若手芸能人を発信源とする。

▼評論家の山本七平氏が日本人の行動を決めるものを空気だと指摘したのが1970年代。指導者すら「まずい」と感じつつも、空気に逆らえず戦争の深みにはまった。空気で物事が動いていいのか。そんな問題提起だった。こっそり人を支配するものから進んで読むべきものへ。30年で空気は表舞台に躍り出た。

▼コミュニケーションの「共通の前提」が崩壊したから、と分析するのは社会学者の宮台真司氏だ。友人とは。学校とは。幸福とは。働く意味とは。親とは、子とは。前提がまちまちでスムーズな意思疎通は難しい。代用品として場の盛り上がり、すなわち空気が異常なほど大事になったとみる。

▼人と人の関係は粗野だが温かいものから「互いに過敏に牽制(けんせい)しあう神経質なものに変質した」と宮台氏。気になることがあっても右から左へ受け流せ、と歌うタレントも今年、人気を得た。空気を読み、顔を使い分け、即興で役割を演じる。そんな日々への倦(う)みを「関係ねえ」の連呼への喝采に見るのは深読みが過ぎるか。

http://209.85.173.104/search?q=cache:K3GIhY8qqacJ:www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/20071229AS1K2900229122007.html+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%80%80%E6%98%A5%E7%A7%8B+%EF%BC%AB%EF%BC%B9&hl=ja&ct=clnk&cd=11&gl=jp

 これの中で
「共通の前提」の崩壊でああそかと思ったのだ。

 空気が読めないヒトでも、本を読むとか親子で何度も話し合うとかで、「共通の前提」について反復した学習を行い、それに即した行動を(多少ズレたことをしていたとしても)取れていた可能性がある。
 そこでの役割・最低条件を正しく実行していれば、多少のずれがあっても
「少し変わった人」
として世の中は受け入れてきたのではないか。

 学者や雑誌・書籍の編集者、あるいは画家や音楽家が多少風変わりな考え方をしても
「あの人は学者だから」
「あの人は画家だから」
「あの人は職人だから」
と世の中は容認してきた。

 ひとつのことに執着して行動することが多い高度機能障害の人間も、こうした特殊分野にいる限り、
「あの人は仕事柄、ちょっと変わっている」
で収まっていたのではないか。
 そして、最低限のルール、共通の前提のぎりぎりラインを守っていれば社会はそれを
「変人」
ではなく
「ちょっと変わった」
程度で受け入れてくれていた。と、私は思う。

 が、こうした「事後・事前に学習し、パターン化して後の行動に反映できる」状況が、減ってきているとしたら。

 そしてもうひとつ。
 「天然」というくくりが登場したことも、軽度の高度機能障害を見逃さずに排除する土壌になっていないか。

 「天然」という用語(?)登場以前は、「ちょっと変わった人」「変人」という言葉で表現されていた。
 「変わっている」というには

普通すぎる普通>>>>普通>>>>(言われてみれば)ちょっと変わっている>>>(こちらには害が無いが気になる程度に)変わっている>>>(不愉快を感じさせる)変人

といったグラデーションが存在していた。
 このグラデーションの中では、軽度のアスペルガーやADHDの同級生は
Aさんにとって、(言われてみれば)ちょっと変わっている
Bさんにとって、(こちらには害が無いが気になる程度に)変わっている
Cさんにとって、(不愉快を感じさせる)変人
だとしよう。
 Cさんが「こいつは変人だから排除」という考えを抱いても、グラデーション的に普通に近いと考える人にとっては
「変人ではない(変わっているけれど)」
であり、Cさんの意思は伝播しにくい。

 ところが、「天然」となると

普通>(>>天然がかっている>>)>天然

 という短絡的な発想にならないか。特に近頃、マスコミに登場するお笑いにしてもタレントにしても、天然というくくりを自他ともに用いたがる。また、若い一般の人たちも「天然」ということで相手を「普通ではない」と認定する傾向が強く感じられる。
 天然というくくりを利用すると上記のケースが
Aさんにとって、天然
Bさんにとって、天然
Cさんにとって、天然
 あとは「天然は排除される対象かどうか」という意思疎通が通るか通らないかの単純な問題だけが残る。

 相手がどういう人か、グラデーションの中でどこに位置しているかを問題にするという前段階が抜けてしまう、そういう世の中になっていないか。

 もしも、もしもそうだとしたら。
 アスペルガーやADHDにとって暮らしにくい時代になっていると思わないか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)